the

Mosquito

Moth

Laboratory

バーチャルインタビュー  2004/11/24

バーチャルインタビューは、モスキートモス号ファンの方々にメールでアンケートをお願いし、それを元に対談形式に再構成したものです。インタビューに応じてくださった方の校閲を経て公開しており、脚色等は行っておりません。が、今回だけは特別です。手紙のやり取りになります。でも聞きたいことはすべて語られてありました。

今回のお客様:風鈴花山さん

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拝啓

 tokuさん初めまして、阿部 祐祐(祐という字を2つ書いてゆうすけ)と言います。
 老いぼれです。風君に習って、「風鈴花山」としました。宜しくお願い致します。

 自分は 戦時中(終戦直前)新米戦闘機乗りでした。

 今でも飛べと言われれば「あかとんぼ」くらいなら乗れると思います。

 すぐに戦争も終わり ご存知のように米軍によって日本の飛行機は全て焼払われてしまいました。幸運?にも自分は新兵だったので生き延びる事ができました。

 それでも飛行機を忘れる事が出来ないで 自作でゴム動力機やグライダーを作り、人目を忍んで飛ばしていたものです。あなた達の言う早朝フライトです。

 時代は過ぎて、誰にはばかる事無く飛行機が飛ばせるようになり、動力も模型エンジンが出て、エンジンのフリーフライト機を作るようになりました。福島は田舎なので宅配便も無いので、エンジンを買いに東京まで出かけて行った事もあります。Uコン機も飛ばしました。

 材料は桐のトラス組胴体に障子紙を貼ったものです。

 当時の燃料はニトロベンゾールとヒマシ油で出来ており1日かけてもエンジンがかからなかった事もあります。とても良い匂いだった事を記憶しております。

 それからラジコンが出始め、シングルチャンネルの時代、マルチチャンネルの時代、そしてデジタルプロポーショナルとラジオも進化し、価格も安くなりました。

 昔は飛行機乗りだったと言う面子もあって、主にスタント機スケール機を飛ばしていました。

 しかし、ある時気がついたのです。

 毎回飛ばしに行くと、必ず上手く飛ばす事に専念して、少しも面白くないし、欲求不満の状態で帰宅します。帰っても次はどうするこうすると考えてばかりで眠れない。経費も嵩み、家族にも白い目でみられ「気違い」扱いされました。

 何の為に飛行機をやっているのか(楽しくないのです)疑問に思うようになりました。

 そんな時、館林さんの事を知り、楽しいフライト、飛行機らしい飛ばし方を知り、今までの所持機を全て処分して(欲しい人に引き取ってもらいました)モスキートモス号を2機買いました。

 出来あがってあまりにも軽い華奢な機体にびっくりしました。昔のゴム動力機と変わりません。

 メカを積まないで重心を合わせれば ゴム動力でも飛ぶと思います。

 絹貼りドープ仕上げエンヤの15エンジンで飛ばした記憶があります。

 飛ばしてみると「何だかすごく楽だなー」と感じ、あまりにもゆっくり飛ぶのにびっくりした記憶があります。何より安全な飛行機だと感じました。

 昔やっていたゴム動力機を思いだし「これが本当の模型飛行機の姿だ」と思いました。

 それから自分はモスキートモス号しか作らなくなりました。他の機体は面白くないと思うようになりました。事実面白くないのです。体力がついて行かないのかも知れません。

 そのうち、飛行クラブの連中とも疎遠になり飛行場でも飛ばせる時間が短くなりました。

 そのころ、飛行場に来ていた風君に会いました。

 自分の飛行機が好きだと言うのです。今までこんな事を言った者はいませんでした。

 自分が長い時間をかけてやっと悟った世界に、この人はいきなり入ってきました。

 たいした奴です。

 同じムサシノのプレイリー号を奨めて、一緒に飛ばすようになりました。

 しばらくして風君も単独飛行が出来るようになり、クラブを辞めようと思い風君と別の飛行場所を捜し、今に至って居ります。

 歳も80を越えてしまいました。

 もう直ぐ戦友に会う事ができる歳になりました。

 先日倒れた時は、やっと戦友に会える筈でしたが、たいした事は無くまた生き延びました。

 モスキートモス号を知らなかったら、風君に会わなかったらとっくに引退していたと思います。

 風君に、あなた達の活躍を、インターネットで見せてもらいました。

 モスキートモス号だけのホームページを見て、同じ考えの人達が居る事を知り、嬉しくなって、この手紙を書いています。

 私は送る事ができないので、風君に頼みます。

 それでは、あなた達の活躍を期待しています。

                         敬具

モスキートモス号 愛好家 「風鈴花山」 阿部 祐祐(老いぼれです) 


阿部様

 お手紙有難うございます。私は福岡県在住のtokuこと徳安 功と申します。38歳の平凡なサラリーマンです。どうぞ宜しくお願いします。

 風様のご縁で大先輩からこのようにお手紙がいただけた事を大変嬉しく思います。モスキートモス号しか作らないというベテランの方とお聞きしていましたので、是非ともインタビューをと思っていたのです。お手紙では私が聞きたい事が全て盛り込まれておりました。ホームページでの公開もご諒解いただけ、誠に有難うございます。

 戦闘機の搭乗員でいらっしゃったということですが、やはり飛行機が好きだったからでしょうか。模型飛行機にも打ち込まれたことからもやはりそうではないかと拝察いたします。

 終戦直前の戦闘機といえばゼロ戦とか、隼、疾風などでしょうか。私は飛行機には興味がありますが軍用機についてはあまり詳しくはありません。どちらかというとメカ好きということなのかもしれません。(後日、風林火山さんより、風鈴花山さんの乗機は『隼』だったとお聞きしました)

 スケール機、スタント機がメインだったけれども、やはりのんびりゆっくり、飛行機らしく飛ぶムサシノ機が好きになった、というお話はこれまでも沢山、いろいろな方からお聞きしています。でもモスキートモス号に触れ、これしかないと思われたのは、阿部様の豊富な経験からしても、これ以上のものがないと思われたからなのだろうと思います。

 私はモスキートモス号で入門したようなものですが、モスキートモス号のゆっくりと美しく飛ぶ姿に魅せられ、これ以外のものはもうメインにすえることはありえないだろうと思っています。私も、大ベテランの阿部様も、同じ飛行機を心底好きになるということで共通しているとすれば、これはとても嬉しいことです。

 モスキートモス号を語るホームページはさほど多くありませんし、ムサシノ機がメジャーな雑誌に出てくることも少なく、きっとモスキートモス号はこのままでは忘れ去られてしまうだろうと、そんな危機感を持ってホームページを始めた事を思い出します。でもインタビューを進め、ムサシノ掲示板に出てこられる方々の話を聞いていても、決してモスキートモス号のファンは少なくないとの思いを持っております。むしろ、好きになったらこればかりという方も沢山あり、モスキートモス号愛好家の輪は時とともに広がっていることを実感します。

 また、モスキートモス号、あるいはムサシノ機を全く知らなかった人たちにもMMLホームページでアピールでき、フライトビデオを見て驚き、ゆっくり優雅に飛ぶ様にあこがれた、実際モスキートモス号を作り始めたというお便りも時々頂いたりします。MMLをやっていて意味が有ったのだなあと、そういう時はしみじみ思ったりもします。

 阿部様は御年80歳を超えられているとのことですが、そこまで現役で、モスキートモス号のフライトを楽しまれているというのは実に素晴らしい事だと思います。

 老いぼれと仰いますが、失礼ながら断じてそのような事は無いと申し上げます。阿部様の優雅なフライトが無ければ、風林火山様がムサシノ機の素晴らしさを知ることも無く、ムサシノファンが風林火山様のツインプレイリー号を見ることもなかったのです。これは阿部様のご功績ではありませんか。

 戦友の方々とゆっくり御再会されるのはもっと後でも十分ではないでしょうか。まだ世間にはムサシノの、モスキートモス号の良さを知らない人たちが、飛行場所の少なさを嘆きながら、また神経をすり減らしながら凄いスピードでしか飛べないラジコン飛行機を飛ばしているではありませんか。阿部様の御経験や技術、お考えが私のような若輩者には必要なのです。世に必要とされている人は、師でこそあれ、断じて老いぼれなどではありません。

 私も阿部様のように、80歳を過ぎるまで元気でモスキートモス号を飛び回らせていたいと思います。そして後の世にもモスキートモス号の素晴らしさを何としても伝えてゆきたいです。

 だんだんと寒くなってまいりました。阿部様、どうかくれぐれもご自愛なさって、モスキートモス号の素晴らしさを堪能すると同時に、広く知らせて行かれてください。80歳を過ぎた方に愛されるモスキートモス号、それにしても何と素晴らしいことか!

 徳安 功 拝
 

風鈴花山さんこと阿部 祐祐さんは、2006年2月11日、永眠されました。享年90歳でした。

阿部さんは心からモスキートモス号とその世界を愛されていました。

同じくモスキートモス号を愛する者として、衷心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
 
 


 

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